IBM iを知らない人へ、 IBM iを説明する時に役立つコンピュータ知識④

IBM iを知らない人へ、 IBM iを説明する時に役立つコンピュータ知識④

その他2024.02.26

IBMiを説明するときに役立つコンピュータ知識


前回のコラムでは、IBMのオフコン設計の方向性についてまとめました。
性能の進化は大前提ですが、ある程度高コストになることを覚悟してまで新しい技術を投入したSystem/38や、低コストで小型・静粛化に優れたSystem/36など、まるで方向性の違うシステムを提供してきたIBM。

今回は、IBM iの元祖『AS/400』についてまとめる予定でしたが、まるで迷走しているかの様にも思えるIBMのオフコン開発の裏側も興味深いと感じましたので、少し横道に逸れますが1970年代~1980年代にIBMが置かれていた状況を整理していきたいと思います。

1970年代のIBMを取り巻く環境①

1970年代のIBMを取り巻く環境(1/4)

IBM System/3の発表を半年後に控えた1969年1月。
IBMは米国司法省から独占禁止法違反で提訴されました。

競合他社の新製品への対抗機種を発表して、競合他社の販売にダメージを与えたにも関わらず、結局対抗機種を発表しなかったことが、ビジネス用コンピュータ市場の独占を狙った悪質な行為と見なされたのが理由の様です。

それだけを聞けば弁解の余地は無さそうに思えますが、それまでも度々独占禁止法違反で訴えられてきたIBMです。System/360がメインフレーム市場をほぼ独占していたこともありますし、相当に目をつけられやすかったのは間違いないと思います。

この訴訟は紆余曲折の末、最終的には1983年に取り下げられ、IBMは判決による直接的な損失は免れました。

とはいえ、その訴訟への防衛のために年間数千万ドルの費用が必要だったと言いますし、なによりも仇敵とも言える検察に目を付けられない様にするために、すべての取引や活動に慎重にならざるを得ないことは多大な損失だったと思います。

1970年代のIBMを取り巻く環境②

1970年代のIBMを取り巻く環境(2/4)

1971年9月。IBMは『Future Systems』プロジェクトを立ち上げます。

プロジェクトの背景には、当時のIBMが置かれた数々の状況が関係しています。
まず、1960年代末のIBMでは、ソフトウェアとサービスはハードウェアに付随するものとして売られていました。つまり、ハードウェア価格にソフトウェアとサービスの代金が含まれていた訳です。
元々、市場の寡占のみならず、ソフトウェアおよびサービスのコストをハードウェア価格に転嫁している点は法的にも攻められていましたし、他の製造業者がIBMより非常に安価な互換周辺機器を製造・販売し始め、その市場が拡大するにつれて、IBMはビジネスモデルの転換を余儀なくされます。
加えて、ハードウェアの価格が年々低下しているのに対して、プログラミングや保守運用のコストは着実に上がっていることも重要な懸念事項のひとつでした。

それらの懸念を払拭するために、下記の3つの目的を主題としてプロジェクトはスタートします。
  • 最新の技術を採用することで、IBM製を含めた既存のコンピュータ装置すべてに取って代わるものにすること。
  • アプリケーション開発と運用に関わるコストを大幅に削減すること。
  • IBMの価格設定方針の転換に技術的に妥当な基盤を与えること。
簡単に言えば、アプリケーション開発と運用にコストがかからず、従来機と互換性を持ちつつも他社の追随を一切許さない最強のコンピュータを低価格で実現する・・・という、夢のような目標です。

Future Systemsプロジェクトでは、プロセッサ数を加減することで切れ目のない広範囲な性能を提供する、3つの実装レベルのマシンが計画されました。
最上位モデル:それまで大型機を開発してきたニューヨーク州ポキプシーで設計。
中型モデル:中型機を従来から受け持っているニューヨーク州エンディコットで設計。
小型モデル:スモールビジネスコンピュータを従来から担当しているミネソタ州ロチェスターで設計。

プロジェクトの成功には、回路設計や製造技術からマーケティングや保守に至るまで、すべての分野でブレイクスルーが必須で、仮に個々の分野で問題が解決されたとしても、すべてが相互に組み合わせ可能な形で解決することは極めて困難でした。

その結果、プロジェクトは1975年に中止の形で終了します。

最終的には残念な結末を迎えたプロジェクトですが、プロジェクトにおける小型モデルのアーキテクチャを単純化したものはロチェスターで開発が続行され、最終的にそれがIBM System/38として結実し、当初の性能はともかくプログラミングのしやすい良い設計であったことを証明しました。

1970年代のIBMを取り巻く環境③

1970年代のIBMを取り巻く環境(3/4)

1982年に、『Fort Knox』という名前のプロジェクトが開始されました。

このプロジェクトは、IBMが提供する複数のミッドレンジ・コンピュータシステム(System/36、System/38、IBM 8100、Series/1、IBM 4300シリーズ)を、単一の製品ラインに統合することを目的としていました。

1969年に始まった米国司法省から独占禁止法違反裁判の圧力も弱まり、会社分割等の恐れも一段落した上に、他社との競争が激しくなる中、互換性のない複数のシステムを抱える意味は薄いと感じたのかもしれません。

しかし、このプロジェクトも『Future Systems』と同様に難航しました。

互換性のないシステムを統合するというのはそもそもが非常に厄介な作業です。
何度も遅延が発生したため、プロジェクトの途中でIBM 8100やSeries/1のソフトウェアをサポートする要件は無くなったものの、それでも困難なことに変わりはありません。

そして、プロジェクトが進むにつれて、各システムを移植するには、そのシステムごとに主プロセッサを大規模に変更する必要があることが判明しました。
逆に副プロセッサでその機能を代替する場合は、各システムごとに主プロセッサを超える規模の副プロセッサが必要になると試算されました。

残念ながらも当然の結果として計画は頓挫し、プロジェクトは1985年に中止の形で終了します。

1970年代のIBMを取り巻く環境④

1970年代のIBMを取り巻く環境(4/4)

『Fort Knox』が頓挫して間もない1985年12月。IBMでは『Silverlake』という名前のプロジェクトが正式に開始されます。
命名の元になっているのはミネソタ州ロチェスターのシルバーレイクです。

実は、このプロジェクトはロチェスターのエンジニア達の立ち上げたスカンクワークス・プロジェクト(業務外の自主的活動)でした。
先見性を遺憾なく発揮した彼らは、その難航具合から『Fort Knox』の失敗を確信し、プロジェクトの途中ながら自発的にSystem/36アプリケーションをSyste/38上で実行できるようにするためのコード開発に着手していたそうです。

『Fort Knox』の中止からほどなく、その非公式なスカンクワークス・プロジェクトがSystem/36とSystem/38の両方を単一の新しいハードウェア・プラットフォームに置き換える公式プロジェクトに発展したという経緯です。

実のところ、『Fort Knox』の影響でロチェスターでの新製品開発は停滞していました。それによってIBMが競争力のあるミッドレンジ・システムを失う状況になってしまったため、System/36およびSystem/38の代替品をなるべく迅速に開発することが本プロジェクトの目的でした。

そして、『Silverlake』プロジェクトはついに『AS/400』を生み出すことに成功します。

ロチェスター事業所について

IBM i(AS/400)の聖地・ロチェスター

IBM i(AS/400)の聖地・ロチェスター

IBMのオフコンの歴史を紐解くと、必ずと言って良いほど『ロチェスター』という単語が出てきます。

ロチェスターとはカナダとの国境に接する米国ミネソタ州にある町の名前ですが、1956年にIBMがその町に事業所を設立しました。
それが『IBMロチェスター事業所』であり、IBM iを語る文脈で使用されるロチェスターという単語は、概ねこの事業所のことを指します。

設立当初はパンチカードのシステムなど、コンピュータの周辺機器を作るための拠点だったと言いますが、IBMのオフコン開発においては黎明期から現在に至るまで一貫して中核を担い続けているため。次第に『IBM i(AS/400)の聖地』としての認知が進みます。
1956年の仮拠点発足時にはわずか174人だった従業員も、最盛期の1990年には8000人を超え、現在は製造拠点としての役割が低くなったため、不動産自体は売却したものの、それでも2000人以上の従業員が勤めるIBMの主要拠点のひとつです。

1960年代。IBM System/360は非常に好調なセールスを記録していました。しかし、IBM System/360の価格は中小企業にとっては高すぎるため、中小企業向けの市場では、競合他社の躍進に苦戦します。今後拡大が予想される中小企業向けの市場を睨み、IBMは中小企業もしくはそれ以下の規模に訴求できるビジネス専用の小型コンピュータの開発を決定します。

そして、その白羽の矢が刺さることになったのがIBMロチェスター事業所です。

独占禁止法の提訴を受けてIBM本体から分割される可能性に怯えながら、右往左往する様々なプロジェクトにも立ち会い、System/360との競合を避けながら中型のコンピュータを開発する・・・。そんな苦難ともいえる道程を経て、ロチェスター事業所の方針は『究極のビジネス向けコンピュータを作る』という哲学に似た何かに昇華していった様に思えます。

その哲学は、始まりのオフコンである『IBM System/3』から今日の『IBM i』までの数多の『オフコン』に一貫して結実しています。

IBM AS/400

IBM ロチェスターの集大成

IBM ロチェスターの集大成

昭和最後の夏の始まり。1988年6月21日。
IBMはSilverlake Projectの成果である『IBM AS/400』を発表しました。

AS/400はApplication System/400の略で、名前の通り、登場の時点でIBMおよびそのビジネス・パートナーによって開発された2,500本以上のビジネスアプリケーションソフトウェアが用意されていたと言います。

ちなみに、当初はSystem/40という名前を使用する予定だったそうですが、IBMがPCの製造・販売を始め、パーソナルシステムに1桁数字のままではいずれ桁が足りなくなると予見されたため、パーソナルシステムは1~2桁、ミッドレンジシステムは3桁、メインフレームは4桁の数字を使用するように製品命名ルールが刷新されたことが原因の様です。

失敗を含めた数々のプロジェクトは決して無駄にはならず、AS/400は先進的なSystem/38のシステムアーキテクチャを数多く採用しながら、System/36との互換性も実現しつつ、今日まで続く新しいシステムとして産声をあげます。

まとめ

初めてのミッドレンジコンピュータである『System/3』を世に送り出した時に、IBMがどの様な状況にあったか。
そして、IBMロチェスターの考えるミッドレンジコンピュータのひとつの到達点とも言える『AS/400』を世に送り出すまでに、どのような道程があったのか。

今回は元から順風満帆とは言い難いオフコン市場で、競争の激化や法的な縛りでさらに四苦八苦したIBMのオフコン開発の舞台裏をまとめてみました。

メインフレーム市場を独走していた反動で逆に苦労した部分もありそうですが、様々な苦悩が多様なアプローチのオフコンを生むことに繋がり、それらで得た経験と思索が次なるオフコンを精錬し、そうして最終的にひとつに統合された純度の高いオフコンがAS/400と言えるのかもしれません。

次回はいよいよAS/400の特徴や35年の足跡をまとめてみたいと思います。